三大都市の違い(13/1)

 APLAの皆さん、こんにちは。

 APLAの皆さん、新年明けましておめでとうございます。

 2012年は、年末の政変はあったものの、大きな災害も無く、安寧に終えることができました。この一年間は、東日本 大震災への反省、被災地の復興と、南海トラフ巨大地震や首都直下地震に対する対策検討などが精力的に行われてきました。8月29日には、内閣府から南海ト ラフ巨大地震に対する被害予測調査結果が示され、甚大な被害予測結果に多くの人たちがびっくりしたと思います。ですが、よく考えれば、東日本大震災と南海 トラフ巨大地震での被災地の人口の差、陸域まで震源域が及ぶ南海トラフ巨大地震での揺れの強さや津波到達時間の差、地震発生の季節や時間の差などを考えれ ば、十分に想定できる被害量だとも言えます。
今、私たちがすべきことは、被害の大小に関わらず、従来と全く変わることはありません。危険な土地をできるだけ避けること、わが身を守るため自己責任とし て家屋の耐震化と家具固定を進めること、そして互いに助け合う心を持つことです。これを進めるため、あいち防災リーダーの皆様には、新しい年も大活躍して 頂ければと思います。どうぞ、本年も、宜しくお願い申し上げます。

 さて、今回は、東京、大阪、愛知の違いについて考えてみたいと思います。

(1)1600年前後に作られた3都市

以前にも紹介しましたが、3大都市の基礎となる大阪城、江戸城、名古屋城は、1600年前後に相次いで築城されました。
最初に作られたのは、大阪城です。1582年本能寺の変での信長の没後、秀吉は1583年に大阪城を築城し、1584年小牧・長久手の戦い、1586年天正地震を経て、1590年に家康を江戸に転封させ、1592年に文禄の役で朝鮮に出兵します。
その後、1596年になると、9月1日慶長伊予地震9月4日慶長豊後地震9月5日慶長伏見地震と、5日間の間に3つの地震を経験し、伏見城も倒壊します。

そして、再び、1597年に慶長の役で朝鮮に出兵しますが、翌1598年に秀吉が没し、早々に日本に撤収します。日本に帰った武将たちは、1600年に関ヶ原で戦にまみえます。この戦いに勝利した家康は、1603年に江戸を開府します。
その2年後に、1605年慶長の大地震が発生し太平洋岸が津波に洗われます。このため、1624年に完成した東海道は津波危険度の高い低地を避けました。

当時の名古屋の城は清須にありましたが、清須城の遺跡からは天正地震での液状化跡も見つかっており水害危険度も高い場所でした。大阪に謀反の動きがあると感じた家康は、清須越しにより熱田台地に城と町を高台移転するように命じ、1610年に名古屋城を築城します。

さらにその翌年、1611年慶長三陸地震が発生し、震災後、伊達政宗は段丘上に仙「台」のまちを作り、奥州街道も津波被災地を避けるように内陸に作りました(1646年完成)。 そして、大阪冬の陣(1614)、夏の陣(1615)と続き、徳川の時代が安定化していきます。

(2)3都市の地形と都市の様相

大阪、東京、名古屋、仙台のまちの基本は、安土桃山から江戸に移るときに形成されました。下図に東京・名古屋・大阪の標高マップに東証1部・2 部上場会社の本社をプロットした図、3都市の中心街(新宿、栄、梅田)の写真、東京都庁、愛知県庁、大阪府咲洲庁舎の写真、3都市を代表する企業として、 電力会社と放送会社の本社の写真を合わせて示します。

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図のように三都市の有り様は随分違います。戦乱の続く時代に作られた大阪城は、石山本願寺城の跡地、上町台地の北端に築城されました。周辺が湿 地帯に囲まれ、南からの攻め手しかなかったため、天然の要害であったようです。しかし、平和な時代になって広げられたまちは、周辺の低地に作られたため、 歴史的に幾度も津波に見舞われてきました。そこに、大会社の本社が集中立地しています。大阪が水の都とか、八百八橋と言われるゆえんがここにあります。水 に関わる地名が多い理由も理解できます。その低地に写真のように高層ビルが林立しています。大阪府咲洲庁舎は埋立地に、大阪市役所や関西電力本社は川に挟 まれた中之島に、放送会社の本社も低地に立地し、いずれも高層ビルです。ちなみに、大阪府咲洲庁舎は、東日本大震災の時に、往復3m弱の揺れとなり、建物 内でも損傷が生じたりしています。

一方、家康は、多くの地震災害を経験した後に、太田道灌の作った城の跡地に江戸城を築城しました。城は武蔵野台地の東端に位置し、東は日比谷の 入江で攻め手がありません。味方の多くは城の西の台地上に住まわせて、何かことがあるときには、陸橋である半蔵門から出て、服部半蔵たちに守られた尾根筋 の甲州街道を経て、甲府に逃げるという方策を考えました。その後、天下普請による江戸整備の過程で、大名たちに日比谷の入江を埋め立てさせ、ここに大名屋 敷を造らせました。、軟弱地盤上に造られた大名屋敷は、その後の1703年元禄関東地震や1855年安政江戸地震で強い揺れに見舞われ、大きな被害を出す ことになりました。その後、明治政府はこの場所を練兵場とし、一部に官庁街を作ろうと考えましたが、地盤が軟弱なため建設を断念し、日比谷公園として残る ことになりました。そして、財政難に陥った明治政府は、岩崎弥太郎に土地を買ってもらうこととなり、皇居前広場の東側に一丁倫敦と呼ばれる近代的なビジネ ス街が作られることになりました。これが、大手町・丸の内界隈のビジネス街になります。写真に見るように高層ビルが林立した過密都市・東京を見ると、心配 になってきます。

下図は、今話題の東京・スカイツリーと瀬戸に建つデジタルタワーを対比した写真です。スカイツリーの建つ場所は、大正関東地震のときに最も大き な被害を受けたところで、揺れに加え、液状化、火災、水害の危険度の高いところです。大事な観光資源とは言え、いざというときにも電波を出し続ける必要の あるデジタルタワーが最も災害危険度の高い場所に建っていることは気になります。一方で、我が町・瀬戸のデジタルタワーは、災害危険度の低い標高100m の東部丘陵に建ち、電波塔としての役割に特化しています。2つのまちの価値観の違いが良く表れています。

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名古屋のまちは、清須越による高台移転のおかげで、戦前までは熱田台地の上に留まっていました。その結果、三の丸の官庁街や主要企業の多くは台 地の上に立地しています。戦災復興の中で墓地移転や区画整理事業を成功させ、広幅員道路が縦横に走る防災的な都市作りをしました。ただし、明治以降に作ら れた鉄道は木造建物が密集する台地を避けて敷設されたため、葦原や湿地帯を通ることとなり、低地に名古屋駅が造られることになりました。今では、名古屋駅 前に高層ビルが林立していますが、台地上の官庁街やビジネス街の町並みは昭和の様子が今でも残っており、東京・大阪と比べ安心感があります。栄周辺の町並 み、愛知県庁や、中部電力・中部日本放送の本社の風情は、昭和っぽいまちの風格を感じさせます。平成の東京的な名古屋駅と昭和の日本的な栄地区という対比 が面白く感じられます。長らくモンロー主義を貫いてきた名古屋は、昔ながらの日本らしさを残すことができた唯一の大都市とも言えます。そんな様子は種々の データからもうかえます。

(3)データから見る3都市の特徴

下図は、様々な指標について、東京都・愛知県・大阪府を比較してみたものです。多くの指標は人口当たりに換算して示してあります。 愛知の人口密度は東京・大阪の1/4~1/3と、土地にゆとりがあります。それ故に、住宅地の価格が安く、十分な収入もあるので、持ち家率が高く、職場の 近くに広い家を持つことができています。祖父母も近くに住んでいるので、子供も産みやすく、結果として出生率が高くなっています。

また、愛知は、1次・2次産業で働く人の割合が多く、農業出荷額や製造品出荷額は抜きん出ています。一方で、消費は少なめのようで、汗をかいて よく働き、質素倹約型の生活をしている様子が表れています。企業にも同様の体質があるのか、輸出が多く輸入は少なめになっています。

東京都に大企業や公務員・高級技術者・高層ビルが集中している様子がよく分ります。愛知と大阪とを比較すると、やや愛知の方が地域の力があるように感じられます。物作りのまちと商売のまちとの違いなのかもしれません。
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このように、愛知・名古屋は、我が国では珍しく、地産地消型の自律的なまちを造ることができているようです。この自律性が、災害に対する耐力に もなります。あと、14年少しで中央リニアが開通し、東京と40分で結ばれます。名古屋が元気であれば、いざというときの東京のバックアップ役も担えま す。昨年11月には、当地を守る基幹的広域防災拠点が、三の丸地区・名古屋空港・名古屋港に整備される案が公表されました。これを機会に、愛知・名古屋の 防災力を格段に向上させ、我が国の災害被害軽減に大きな寄与ができると良いと思います。