東日本大震災に見る歴史の大切さ(11/6)

APLAの皆さん、こんにちは。

3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震は、我が国観測史上最大の地震となりました。マグニチュードは9.0、宮城県栗原市築館での最大震度 7を始め、東北地方から関東地方の広域で震度6弱以上の揺れとなり、太平洋岸には、高さ10mを超える津波が来襲し、堅牢な防波堤をも破壊し、全てを洗い 流しました。三陸地方は、明治以降だけでも、1896年明治三陸地震津波、1933年昭和三陸地震津波、1960年チリ地震津波など、度重なる津波災害を 経験しており、防災意識も高く、防波堤や避難訓練など様々な津波対策を施していました。それにも関わらず、15,000人を超す犠牲者を出し、震災から3 カ月たった今でも、8,000人を超える人たちが行方不明になっており、10万人にも及ぶ人たちが避難生活をしています。被災地の光景は想像を絶するもの でした。一面、何も無くなっている場所、墓場のように瓦礫が残る場所など、この豊かな日本の社会で、このような光景を見るとは思っていませんでした。下の 写真は、5月22日の夕刻に、仙台市若林区の荒浜で、海岸から仙台中心地に沈む夕日を見た景色です。遠くに見える高層ビルの前に広がる荒漠たる景色を決し て忘れることはできません。
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一方、福島第一原子力発電所では、津波による非常用電源の喪失により炉心溶融が起こり、広域で放射能汚染が発生し、多くの住民が、避難生活を余儀なくさ れ、計画停電も実施されています。絶対に起こしてはいけない災害でした。原子力発電施設の設計に関わった一人として、想像を絶する状況を目にし、無念で す。

首都圏では、長時間・長周期の地震動によりタンク火災が発生し、高層ビルは強い揺れに見舞われました。鉄道の運休により多くの帰宅困難者を出 し、高機能現代都市の脆さが露わになりました。私も、当日は、東京青山にある23階建ての高層ビルにいました。15階にあるセミナー室で、長周期地震動に 対する高層ビルの揺れについて話をしていたところで、正に長周期の揺れを体感しました。揺れがドンドン大きくなり、いつまでも揺れ続けました。窓からは、 余震のたびに左右に揺れる高層ビル、遠方に立ち上がる煙が見え、その後、錯綜する情報、エレベータの停止、コンビニでの品物の売り切れ、帰宅困難など、大 都市の抱える課題を実感しました。

政府は、4月1日の持ち回り閣議において、この災害を東日本大震災と命名しました。経済被害は25兆円に上るとも言われ、国民一人当たり20万円程度の負担が必要となります。

まずは、この震災で犠牲になった方々のご冥福をお祈りすると共に、被災された皆様に謹んでお見舞いを申し上げたいと思います。私たちができるこ とは、被災地の復興をできるかぎり支援することと、この震災から少しでも多くを学びとり、来るべき巨大地震の被害を少しでも減らすことしかありません。

APLAの皆さんも同様と思いますが、3月11日以降、繁忙を極めており、文章を書く時間をとることがなかなかできません。皆さんは、この3ヶ 月間、新聞やテレビなどで私以上に色々勉強されていると思います。そこで、この震災そのものについての話は次回以降に譲ることにして、今回はまずは第1報 として、869年に発生した貞観地震のことや、その伝承のことについてお話したいと思います。

日本大震災は1000年に一度の震災と言われています。同様の地震は、平安の初期、貞観時代に発生したようです。1990年に東北電力女川原子 力発電所建設所の技師、阿部壽氏他が、仙台平野の津波堆積物から、平野内で津波被害があったことを証明しました。さらに、六国史の時代の最後の正史・日本 三代実録に記された仙台・多賀城での津波の記述と対比することで、869年貞観地震であることを突き止めました。このこともあり、女川原子力発電所は高さ 20m以上の崖の上に作られ、今回の地震でも事なきを得たのかもしれません。その後、東北大学や産業技術総合研究所の研究者らが、津波浸水域についての詳 細な調査を行い、震源域についても検討が行われました。今回の震災は決して想定外ではなかったようです。

日本三代実録には、貞観地震のことが次のように記述されています。

「貞観十一年五月廿六日癸未。陸奥国地大震動。流光如昼隠映。頃之。人民叫呼。伏不能起。或屋仆圧死。或地裂埋殆。馬牛駭奔。或相昇踏。城郭倉 庫。門櫓墻壁。頽落?覆。不知其数。海口哮吼。声似雷霆。驚濤涌潮。泝徊漲長。忽至城下。去海数十〔千〕百里。浩々不弁其涯?。原野道路。惣為滄溟。乗船 不遑。登山難及。溺死者千許。資産苗稼。殆無孑遺焉。」

これは次のように現代語訳されています。

「貞観11年5月26日、陸奥の国で大地震があった。昼のような光が流れて、光ったり陰ったりした。しばらくして、一般の人たちは大声を出し、 地面に伏して起き上がることができなかった。あるものは家が倒れて圧死した。あるものは地面が割れてその中に落ち埋まって死んだ。馬や牛は驚いて走り、あ るものは互に昇って足踏みした。城郭や倉庫、門・櫓・土塀・壁が崩れ落ちたり転倒したりしたが、その数は数え切れないほど多い。海では雷のような大きな音 がして、物凄い波が来て陸に上った。その波は河を逆上ってたちまち城下まで来た。海から数千百里の間は広々した海となり、そのはてはわからなくなった。原 や野や道はすべて青海原となった。人々は船に乗り込む間がなく、山に上ることもできなかった。溺死者は千人ほどとなった。人々の財産や稲の苗は流されてほ とんど残らなかった。」

多賀城は、律令時代に、陸奥国に設置された国府で、蝦夷討伐の最前線の重要拠点だったようです。724年に多賀城が作られるまでは、郡山遺跡 (現在の仙台市太白区)に国府があったようです。飯沼勇義(仙台平野の歴史津波、宝文堂、1995)によると、700年ごろに当地を襲った津波の後に、都 から鬼門の方向であった郡山から多賀城に国府を移動したと説明されています。多賀城は大宰府と並ぶ東国の最重要拠点であったことから、京の都にも上記のよ うに克明な情報が届いたのでしょう。

貞観時代は、自然災害が多発した時代だったようです。表に示すように、貞観地震に先立つ6年前の863年には、越中・越後で大地震が発生し、翌 864年には、富士や阿蘇が噴火、前年の868年には播磨・山城で大地震が発生しています。この時代には、福岡の直方(のおがた)に隕石が落下したり、海 賊の来襲、疫病、干ばつや水害など、災いが続きました。このため、災いを治めるために御霊会が行われたようです。京都の祇園祭は、祇園で行われた御霊会を 起源として869年に始まったと言われています。

貞観地震の後も、肥後、出雲、京都、千葉などで地震が相次ぎ、878年には関東で、さらに887年には、東海・東南海・南海地震が発生しました。

兵庫県南部地震や新潟県中越地震・中越沖地震、東北地方太平洋沖を経験し、首都直下地震や、南海トラフ巨大地震の発生が懸念されている現代ととてもよく似ているように思います。

表 貞観地震前後の災い

年     西暦     できごと
弘仁9     818      関東諸国で地震 M≧7.
天長4     827      京都で地震 M 6.5~7.0
天長7     830      出羽で地震 M 7.0~7.5
承和8     841      伊豆で地震 M≒7.0
嘉祥3     850      出羽で地震 M≒7.0
貞観3     861      直方隕石が落下。
貞観4     862      海賊が横行、京中の水が枯渇。
貞観5     863      越中・越後地震。畿内に咳病が流行。神泉苑で御霊会。
貞観6     864      富士山噴火、阿蘇山噴火。 長雨により餓死者多数。
貞観7     865      疫病退散を願い大般若心経会。佐比寺で疫神祭
貞観9     867      阿蘇山噴火、疫病が蔓延。餓死者多数
貞観10    868      播磨・山城地震 M≧7.0
貞観11    869      貞観地震 M 8.3。新羅海賊。御霊会。肥後で大水害。
貞観13    871      鳥海山噴火
貞観14    873      咳病大流行
貞観15    874      近畿大飢饉、開聞岳噴火
貞観16    875      台風来襲。都は風害で大被害
貞観17    876      干ばつ
元慶2     878      相模・武蔵で地震 M 7.4
元慶4     880      出雲で地震 M≒7.0
仁和元    885      薩摩国、開聞岳大噴火
仁和2     886      安房国で地震・雷など頻発
仁和3     887      南海地震、東南海地震、東海地震 M 8.0~8.5

貞観地震のことは、正史にだけに残されているわけではないようです。小堀鐸二研究所の武村雅之さんに教えてもらい、飯沼さんの本に記されている 末の松山(右の写真)に出かけてみました。末の松山は多賀城の近くにある宝国寺という寺の裏にありました。「末の松山」は、和歌に詠まれる歌枕で、清原元 輔が後拾遺和歌集で詠んだ

契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山浪越さじとは

が有名なようです。その他にも、

「古今和歌集」
君をおきてあだし心をわがもたばすゑの松山浪もこえなむ  (東歌)
浦ちかくふりくる雪は白浪の末の松山こすかとぞ見る (藤原興風)
「後撰和歌集」  土左
わが袖はなにたつすゑの松山かそらより浪のこえぬ日はなし
「拾遺和歌集」  人麿
浦ちかくふりくる雪はしら浪の末の松山こすかとぞ見る
「金葉和歌集」  大蔵卿匡房
いかにせんすゑの松山なみこさばみねのはつゆききえもこそすれ
「千載和歌集」  藤原親盛
あきかぜは浪とともにやこえぬらんまだきすずしきすゑの松山
「新古今和歌集」  藤原家隆朝臣
霞たつすゑの松山ほのぼのと波にはなるる横雲の空
「能因集」
すゑのまつ山にて白浪のこすかとのみそきこえける末の松山まつ風の声
「後鳥羽院御集」
冬見わたせば浪こす山のすゑの松木すゑにやとる冬の夜の月

などがあるようです。何れも、末の松山を浪が越さない、と記されており、津波がこの山を越さなかったようにも読めます。確かに、今回の震災でもこの山の上にまでは津波は来ませんでした。

一方、この山から少し離れたところに別の歌枕である「沖の石」がありました。沖から流されてきたような石が幾つかありました。この地を詠んだ和歌には、

「千載和歌集」  二条院讃岐
わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし

があり、袖が乾かない、と詠まれています。この場所は、今回の震災でも2m程度津波に浸かっていました。どうも、甚大な津波災害のことを後世に伝えているように思えてなりません。

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1611年に起きた慶長三陸地震津波で津波が到達しなかった場所には、浪分神社や浪切不動が作られ、不動像が海を睨みつけています。また、この地震後に作られた奥州街道は、津波危険度が低い場所を通っています。これらは、先人の残したメッセージのようにも思います。

私たちも、一度、当地の郷土史を勉強してみてはどうでしょう。