ハイチの地震と阪神・淡路大震災(10/3)

今年、1月17日で、阪神・淡路大震災から15年が経ちました。15周年の特集記事や特集番組が沢山流れる中、日本時間の1月13日にハイチで大きな地震が発生しました。

今、ハイチでの被害は未だ十分には把握されていないようですが、地震の発生時刻は2010年1月12日16時53分(日本時間13日6時53 分)、震源はポルトープランスの西南西約15km、深さ10km、地震のマグニチュードはMw7.0、首都ポルトープランスの震度は改正メルカリ震度で VII?X(気象庁震度階では6弱~6強に相当)の揺れだったようです。ハイチは、北アメリカプレートとカリブプレートが衝突する場所に当り、地震を起こ した活断層はエンリキロ-プランテインガーデン断層と呼ばれています。被災者の数は約300万人程度とのことで、地震の規模、人口密集地から震源までの距 離、被災者の数など、阪神・淡路大震災とそっくりです。
しかし、阪神・淡路大震災との大きな違いがあります。それは、死者の数と国にとってのダメージの違いです。

現在のところ、ハイチでの死者は少なくとも23万人と言われており、30万人との見込みもあるようです。一方で阪神・淡路大震災の死者は6千人 余です。同じ規模、揺れ、被災者の地震にも関わらず、犠牲者の数が50倍も違います。これこそは耐震性の重要性を示す結果です。阪神・淡路大震災では昭和 56年以前の既存不適格建物、中でも古い木造家屋の倒壊により多くの犠牲者を出しましたが、それでも、その被害はハイチとは比べ物になりません。既存不適 格建物の耐震改修を進めればさらに犠牲者をワンオーダー減らすことができると思います。被害は私たちの努力で幾らでも減らすことができることを教えてくれ た地震とも言えます。

もうひとつの違いは、国家にとってのダメージの大きさです。ハイチの人口は1000万人弱、我が国の人口12700万人の十分の一以下です。同 じ300万人の被災者でも、ハイチでは国民の1/3、我が国では国民の1/40の被災者割合となります。この差はとてつもなく大きいものです。ハイチでの 経済被害は、国内総生産の6割にも及びます。大統領府まで倒壊したハイチでは、国を維持することすら心配されている状況にあります。

これに対し、阪神・淡路大震災の経済被害10兆円は当時の国内総生産の2%程度に留まりました。これによく似ているのが、一昨年に発生した四川 大地震です。四川大地震での被災者は4000万人、経済被害は15兆円程度と言われ、想像を絶する被害ですが、その被災者は中国国民の1/30程度、経済 被害は国内総生産の5%程度と考えられます。国の力に比すと、阪神・淡路大震災と四川大地震の被害インパクトは同程度であるとも考えられます。何れの地震 も大変な被害を出し、それぞれの被災地域の被災者にとっては被害の深刻さは変わりませんが、国そのものの存立に関わるものではありませんでした。中国の被 害は東海・東南海・南海地震の被害に匹敵するものです。しかし、我が国の10倍の国力を有する中国のことですから、すでに、2年を経過して、地震の痛手を 感じさせない経済力を見せつけています。

我が国でも過去に国内総生産の4割にも及ぶ被害を出した震災があります。皆さんもご存じの1923年関東大震災です。10万人の犠牲者を出す我 が国首都を襲った大震災です。この痛手は余りにも大きく、その後、我が国は大変暗い社会へと変化していき、中国に出ていったり、戦争を始めたりしました。 そして、皆さんもご存じの1944年東南海地震、1945年三河地震と共に敗戦へと向かって行きました。こういった過去を振り返ると、ハイチの大変さが想 像できます。

ハイチの被害は他人事ではありません。私たちを待ちうけている東海・東南海・南海地震、首都直下地震は、合わせるとその被災者は国民の半分、そ して、その経済被害は、国内総生産の4割にも達するとの被害予測が示されています。全壊家屋は合わせて200万棟、これは、我が国で建設する建物や一般ご み排出量の4年分にも当ります。このような被害を出せば、我が国国民も、今のハイチの国の人たちと同じような状況になります。

私たちは、阪神・淡路大震災、四川大地震、ハイチの地震などを、他人事とせず、自分が被災していると思ってその教訓を学ぶことが、被災した人たちに報いることにもなります。

さて、ご存じの方も多いと思いますが、ハイチの地震が起きた日(日本時間)は、三河地震から65年目を迎える当日でした。なぜか、その日のメ ディアは、ハイチの地震を大きく取り上げてはいましたが、三河地震のことはほとんど伝えてなかったように思います。これは大変残念なことだと感じました。 つい先日、名古屋市博物館で開催中の「開府400年記念特別展 名古屋400年のあゆみ」(平成22年1月9日~3月7日)を訪れてみました。濃尾地震や 伊勢湾台風、戦時下の空襲の展示はあったのですが、東南海地震と三河地震に関わる展示は皆無でした。このようにして、貴重な災害教訓が忘れていくのだと感 じざるを得ませんでした。戦時下で情報統制されたため多くの国民に知らされなかった地震とは言え、来るべき東海・東南海地震への備えを進め、次の開府 500年まで、このまちをつつがなく受け継ぐためには、過去の被災体験に学び、備えるしかありません。

そういった意味で、阪神・淡路大震災15周年に関連して報道された特集記事や特集番組から学ぶことが多かったと思います。例えば、フジテレビ (東海テレビ)系列で放送された「神戸新聞の7日間」は、当事者としての新聞記者の様子をリアルに伝えていました。私は、この番組に登場した神戸新聞の論 説委員長だった三木康弘さんの社説が気になり、すぐにホームページを検索しました。神戸新聞にその社説が掲載されていましたので、ここに再録したいと思い ます(http://d.hatena.ne.jp/shinsai15/20100117/1263687113)。

「あの烈震で神戸市東灘区の家が倒壊し、階下の老いた父親が生き埋めになった。三日目に、やっと自衛隊が遺体を搬出してくれた。だめだという予 感はあった。 だが、埋まったままだった二日間の無力感、やりきれなさは例えようがない。 被災者の恐怖や苦痛を、こんな形で体験しようとは、予想もしなかった。 あの未明、ようやく二階の窓から戸外へ出てみて、傾斜した二階の下に階下が、ほぼ押し潰されているのが分かり、恐ろしさでよろめきそうになる。父親が寝て いた。いくら呼んでも返答がない。 怯えた人々の群が、薄明の中に影のように増える。軒並み、かしぎ、潰れている。ガスのにおいがする。 家の裏へ回る。醜悪な崩壊があるだけだ。すき間に向かって叫ぶ。 何を、どうしたらよいのか分からない。電話が身近に無い。だれに救いを求めたらよいのか、途方に暮れる。公的な情報が何もない。 何キロも離れた知り合いの大工さんの家へ、走っていく。彼の家もぺしゃんこだ。それでも駆けつけてくれる。 裏から、のこぎりとバールを使って、掘り進んでくれる。彼の道具も失われ、限りがある。いつ上から崩れてくるか分からない。父の寝所とおぼしきところまで 潜るが、姿がない。何度も呼ぶが返事はなかった。強烈なガスのにおいがした。大工さんでは、これ以上無理だった。 地区の消防分団の十名ほどのグループが救出活動を始めた。瓦礫(がれき)の下から応答のある人々を、次々、救出していた。時間と努力のいる作業である。頼 りにしたい。父のことを頼む。だが、反応のある人が優先である。日が暮れる。余震を恐れる人々が、学校の校庭や公園に、毛布をかぶってたむろする。寒く て、食べ物も水も乏しい。廃材でたき火をする。救援物資は、なかなか来ない。 いつまで辛抱すれば、生存の不安は薄らぐのか、情報が欲しい。 翌日が明ける。近所の一家五人の遺体が、分団の人たちによって搬出される。幼い三児に両親は覆いかぶさるようになって発見された。こみ上げてくる。父のこ とを頼む。検討してくれる。とても分団の手に負えないといわれる。市の消防局か自衛隊に頼んでくれといわれる。われわれは、消防局の命令系統で動いている わけではない、気の毒だけど、という。 東灘消防署にある救助本部へいく。生きている可能性の高い人からやっている、お宅は何時になるか分からない、分かってほしいといわれる。十分理解できる。 理解できるが、やりきれない。そんな二日間だった。 これまで被災者の気持ちが本当に分かっていなかった自分に気づく。“災害元禄”などといわれた神戸に住む者の、一種の不遜(ふそん)さ、甘さを思い知る。  この街が被災者の不安やつらさに、どれだけこたえ、ねぎらう用意があったかを、改めて思う。(1995年1月20日神戸新聞朝刊1面)」

これから、大きな地震を迎える私たちは、三木論説委員長のこの社説に吐露した思いを、当事者意識を持って受け止めていきたいと思います。