70年前の諌言(08/5)

皆さんこんにちは。今年のあいち防災リーダー会の総会で、リーダー会の船頭が太田会長から早川会長にバトンタッチしました。太田会長は、その人 間味豊かな活動スタイルにより、リーダー会を立派に独り立ちさせてくれました。本当に、太田さんには「感謝!」です。バトンを渡された早川さんは、太田さ んを副会長として支えながら、抜群の行動力で、リーダー会の活動を引っ張っていらっしゃいました。3月29日に開催した「防災フェスタ2008inみな と」でも、早川さんの力がいかんなく発揮されました。早川さんのリーダーシップの下、皆で協力して、息長く活動を継続していく工夫をしていきましょう。

私は、APLA総会の翌週に、女房の祖母の墓参りで茨城に出かけました。その際に、鹿島神宮に赴き、要石にお参りしてきました。要石はびっくりするほど 穏やかでひっそりしたものでした。地表に見える石はとても小さく見え、これが、大ナマズを押さえつけているとは思えないものでした。鹿島神宮を参拝した夜 は、ナマズの天ぷらも食し、地震退治をしてきました。翌朝は、潮来の水郷地帯を船で回りましたが、このような軟弱地盤の地域が歴史的に存続しているのは、 茨城県では大地震を殆ど経験していないためと、思わず感じ入りました。茨城県人によると、いまだ、茨城では地震の犠牲者は一人もいないとのこと(未確認で す)、要石の力を思わずにいられません。

さて、今回は、今から74年前、夏目漱石の弟子でもあった著名な物理学者・寺田寅彦の一文を紹介しましょう。寺田寅彦は、「天災は忘れた頃にやってくる」 との名言を残した人だとも言われています(実際には、この言葉を直接的に語ったわけではないとの説もありますが、同様の意味の発言を何度もされていたよう です)。この一文は、「経済往来」1934年11月号で「天災と国防」(青空文庫にて閲覧可能、http://www.aozora.gr.jp /cards/000042/files/2509_9319.html)と題して発表されました。当時の社会の有りように対して厳しく警鐘を鳴らしてい ます。現代を生きる私たちにとって、耳が痛い話ばかりです。下記に、一部を引用しますのでご覧下さい。

『いつも忘れられがちな重大な要項がある。それは、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増すという事実である。人類がまだ草昧の時 代を脱しなかったころ、がんじょうな岩山の洞窟の中に住まっていたとすれば、たいていの地震や暴風でも平気であったろうし、これらの天変によって破壊さる べきなんらの造営物をも持ち合わせなかったのである。もう少し文化が進んで小屋を作るようになっても、テントか掘っ立て小屋のようなものであって見れば、 地震にはかえって絶対安全であり、またたとえ風に飛ばされてしまっても復旧ははなはだ容易である。とにかくこういう時代には、人間は極端に自然に従順で あって、自然に逆らうような大それた企ては何もしなかったからよかったのである。文明が進むに従って人間は次第に自然を征服しようとする野心を生じた。そ うして、重力に逆らい、風圧水力に抗するようないろいろの造営物を作った。そうしてあっぱれ自然の暴威を封じ込めたつもりになっていると、どうかした拍子 に檻を破った猛獣の大群のように、自然があばれ出して高楼を倒壊せしめ堤防を崩壊させて人命を危うくし財産を滅ぼす。その災禍を起こさせたもとの起こりは 天然に反抗する人間の細工であると言っても不当ではないはずである、災害の運動エネルギーとなるべき位置エネルギーを蓄積させ、いやが上にも災害を大きく するように努力しているものはたれあろう文明人そのものなのである。もう一つ文明の進歩のために生じた対自然関係の著しい変化がある。それは人間の団体、 なかんずくいわゆる国家あるいは国民と称するものの有機的結合が進化し、その内部機構の分化が著しく進展して来たために、その有機系のある一部の損害が系 全体に対してはなはだしく有害な影響を及ぼす可能性が多くなり、時には一小部分の傷害が全系統に致命的となりうる恐れがあるようになったということであ る。単細胞動物のようなものでは個体を切断しても、各片が平気で生命を持続することができるし、もう少し高等なものでも、肢節(しせつ)を切断すれば、そ の痕跡(こんせき)から代わりが芽を吹くという事もある。しかし高等動物になると、そういう融通がきかなくなって、針一本でも打ち所次第では生命を失うよ うになる。(中略)文化が進むに従って個人が社会を作り、職業の分化が起こって来ると事情は未開時代と全然変わって来る。天災による個人の損害はもはやそ の個人だけの迷惑では済まなくなって来る。村の貯水池や共同水車小屋が破壊されれば多数の村民は同時にその損害の余響を受けるであろう。二十世紀の現代で は日本全体が一つの高等な有機体である。各種の動力を運ぶ電線やパイプやが縦横に交差し、いろいろな交通網がすきまもなく張り渡されているありさまは高等 動物の神経や血管と同様である。その神経や血管の一か所に故障が起こればその影響はたちまち全体に波及するであろう。今度の暴風で畿内地方の電信が不通に なったために、どれだけの不都合が全国に波及したかを考えてみればこの事は了解されるであろう。これほどだいじな神経や血管であるから天然の設計に成る動 物体内ではこれらの器官が実に巧妙な仕掛けで注意深く保護されているのであるが、一国の神経であり血管である送電線は野天に吹きさらしで風や雪がちょっと ばかりつよく触れればすぐに切断するのである。市民の栄養を供給する水道はちょっとした地震で断絶するのである。(中略)それで、文明が進むほど天災によ る損害の程度も累進する傾向があるという事実を充分に自覚して、そして平生からそれに対する防御策を講じなければならないはずであるのに、それがいっこう にできていないのはどういうわけであるか。そのおもなる原因は、畢竟そういう天災がきわめてまれにしか起こらないで、ちょうど人間が前車の顛覆を忘れたこ ろにそろそろ後車を引き出すようになるからであろう。しかし昔の人間は過去の経験を大切に保存し蓄積してその教えにたよることがはなはだ忠実であった。過 去の地震や風害に堪えたような場所にのみ集落を保存し、時の試練に堪えたような建築様式のみを墨守して来た。それだからそうした経験に従って造られたもの は関東震災でも多くは助かっているのである。大震後横浜から鎌倉へかけて被害の状況を見学に行ったとき、かの地方の丘陵のふもとを縫う古い村家が存外平気 で残っているのに、田んぼの中に発展した新開地の新式家屋がひどくめちゃめちゃに破壊されているのを見た時につくづくそういう事を考えさせられたのであっ たが、今度の関西の風害でも、古い神社仏閣などは存外あまりいたまないのに、時の試練を経ない新様式の学校や工場が無残に倒壊してしまったという話を聞い ていっそうその感を深くしている次第である。やはり文明の力を買いかぶって自然を侮り過ぎた結果からそういうことになったのではないかと想像される。新聞 の報ずるところによると幸いに当局でもこの点に注意してこの際各種建築被害の比較的研究を徹底的に遂行することになったらしいから、今回の苦い経験がむだ になるような事は万に一つもあるまいと思うが、しかしこれは決して当局者だけに任すべき問題ではなく国民全体が日常めいめいに深く留意すべきことであろう と思われる。』

社会を豊かにし中央集約化することが、社会を災害に対して脆くすることを、70年以上も前に明解に指摘しています。防災よもやま話でも、このと ころシリーズとして、現代と過去の比較をしながら、現代社会の災害に対する脆さについてお話ししてきましたが、寺田寅彦の名文を読むと、改めて、教育の大 事さを感じます。