名古屋の地名と地形を考える(06/9)

みなさんこんにちは。今回は、名古屋の中心、熱田台地について考えてみたいと思います。

愛知の語源は万葉集にある歌「桜田へ鶴鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた)潮干にけらし鶴鳴き渡る」にあるようです。海との深い関わりが感じられます。

愛知の県庁所在地、名古屋の中心部は、かつて蓬莱島と言われた南北に長い熱田台地の上にあります。熱田台地の北端には名古屋城が、南端には三種 の神器「草薙の剣」が祭られた熱田神宮が、そして、西端には堀川が流れています。ちなみに、尾張の語源「お治(はり)」は開墾地を意味し、名古屋の語源の 一つとして「長い尾張(ながいお治→なごや)」という説もあるようです。南北に長い熱田台地を見立てたのかも知れません。

そういえば、蓬莱といえば、元祖ひつまぶしの「蓬莱陣屋」を思い出しますね。蓬莱島の西に作られた名古屋は、蓬左と言われ、徳川園にある蓬左文 庫を思い起こします。徳川家康が、清洲から熱田台地の上に城下を移した「清洲越え」は1610年ですから、名古屋ができてそろそろ400年になります。

名古屋城の北の台地の北端の位置には、江戸時代中期までは矢田川が流れており、矢田川が刻んだ崖状の地形が作られています。土居下~清水~森下~茶屋が坂へと、坂が西から東にずっと続いています。矢田川は1767年の氾濫で流路を北に変えたようです。

一方、台地の南端には、宮の渡しがありました。江戸時代、東海道は熱田から桑名までは、七里の渡しと呼ばれた海路となっていました。今は港の埋立てが進み、名古屋港はずっと南に移動しています。

台地の西を境するのは、堀川です。堀川沿いには、泥江、天王崎、洲崎、水主、荒江、須賀、柳川、川並、船方、大瀬子などと、水に関わる地名が並 んでいます。この西側には広大な沖積低地である濃尾平野が養老山地まで広がっています。木曽川・長良川・揖斐川の木曽三川周辺には、輪中や海抜ゼロメート ル地帯が広がっています。

台地の東には、かつての精進川が刻んだ谷があります。丁度、芸術文化センターの東にある栄公園の前の坂道が熱田台地の東端になります。精進川 は、現在は、新堀川に生まれ変わり、新堀川を掘削した土で埋めたのが鶴舞公園になります。さらにその東には御器所台地、東部丘陵へと繋がっていきます。東 部丘陵には、山崎川と天白川が刻んだ谷地形が交錯しています。それらの谷には、名古屋大学の東山キャンパスや東山公園が立地しています。

熱田台地からは縄文貝塚も見つかっていますので、ここは、1万年前から陸になっていたことが分かります。当時、台地の東西には広く海が広がって いたのでしょう。縄文貝塚は岐阜市周辺から、弥生貝塚は一宮周辺から見つかることから、1万年前には、熱田台地の西は岐阜までが、有史時代当初は一宮当た りまでが海だったことが分かります。さらに、関西本線より南側が干拓されて陸になったのは江戸時代以降になります。超高層ビルが建ち並ぶ名古屋駅周辺も戦 前は葦原が広がっていたようです。

名古屋の町は、江戸・明治時代までは、ほぼ、地盤の良い熱田台地の上に留まっていたので、1891年濃尾地震での名古屋の被害は軽微でした。大 正時代以降、まちが徐々に広がりましたが、戦前は概ね熱田台地の上に留まっていたので、1944年東南海地震で被害を受けたのは、ここからはみ出したとこ ろに集中しました。零戦を作っていた三菱重工・道徳工場もその一つです。今の名古屋の過半はこういった沖積低地に広がってしまいました。

一度、皆さんも、地名を見つめ直して下さい。過去を知る手がかりを得ることができるかもしれません。