愛知から始まった日本の防災(05/1)

2005年1月

愛知防災リーダーの皆さん、あけましておめでとうございます。

昨年は、度重なる豪雨、台風の来襲、そして地震と、まさしく「災」の年でした。特に、年末に発生したスマトラ地震の被害の甚大さは、想像を絶するモノでし た。前回の「防災よもやま話④」で、東南海地震の津波の教訓を解説した後だけに、本当にびっくり致しました。正月を応急仮設住宅で過ごした、中越地方の 方々や、豪雨・台風災害に被災した方々、そして、インド洋周辺で被災された多くの方々に、お見舞いを申し上げたいと思います。私たちは、これらの災害を我 がコトと受け止め、これからの災害を少しでも軽減するよう、できるだけ多くの教訓を学んでいきたいと思います。そして、「災い転じて福となす」よう、日頃 の啓発活動と備えの活動を通して、地域の防災力をアップさせていきたいと思います。その中心的な役割を担って下さるのが、あいち防災リーダーの皆様です。 さて、今回の話題は、「愛知から始まった日本の防災」です。

名古屋圏は、我が国随一の産業拠点であり、約1000万人が住む我が国第3の都市圏です。気候に恵まれ、豊かな土地柄です。しかし、一方で、数多くの自 然災害に見舞われてきました。明治以降だけでも、死者1000人を超す3つの地震災害(1891年濃尾地震、1944年東南海地震、1945年三河地震) と、1959年伊勢湾台風や2000年東海豪雨などの風水害に襲われています。

濃尾地震は、内陸で起きた過去最大の地震です。根尾村(現本巣市)美鳥に高さ6mの断層崖を作り、美濃から尾張にかけて甚大な被害を与えまし た。まさしく、「身の(美濃)終わり(尾張)地震」でした。この地震では、明治以降に導入された煉瓦造などの西洋建築が大きな被害を受け、西洋文明の安易 な導入に警鐘を鳴らした地震でもありました。当時の政府は、この地震を契機に文部省に震災予防調査会を設置しました。震災予防調査会は、地震学や耐震工学 の礎となった組織であり、数多くの貴重な研究成果を残しました。この組織は、関東地震の後、東京大学地震研究所へと発展的に解消をしました。万一、濃尾地 震が発生したときに名古屋大学が存在していたら、地震研究所は名古屋大学に作られていたかも知れません。

太平洋戦争中に発生した東南海地震は、真珠湾攻撃(12月8日)の4周年記念行事の準備の最中の(12月7日)お昼時に発生しました。当時は、 戦時統制下のため、被害資料は十分に残っておらず、一般住民には災害情報が十分に行き渡りませんでした。翌週12月13日から、本格的な名古屋大空襲が始 まり、翌年1月の空襲は9回を数えたそうです。さらに、1ヶ月後の1月13日には三河地震が発生しています。1944年末期から1945年初頭にかけての 地震と空襲の続発によって、名古屋周辺の軍需施設は壊滅的な痛手を被りました。この東南海地震と三河地震における建物被害の教訓は、1950年に作られた 建築耐震基準にも活かされています。すなわち、耐震工学の基礎になった災害と言えます。

さらに、戦後に発生した1959年伊勢湾台風での被害は、死者5,098、全壊家屋833,965にものぼり、戦後最大の自然災害となりまし た。これを契機に、災害対策基本法が制定されています。まさしく、我が国の防災対策の原点となった災害と言えます。ちなみに、名古屋大学の土木工学科も、 伊勢湾台風後に設置されました。

このように、我が地は、度重なる災害に見舞われ、それを教訓に地震学・地震工学・耐震工学が芽生え、さらに、我が国の防災体制が確立しました。 私たちの地域の災害を教訓にして、他地域の災害が軽減されたわけです。今度は、逆の立場になって、私たちが、他地域の災害を教訓として我が地の災害を軽減 しなければいけません。昨年発生した様々な災害を教訓にして、私たちの地域で、災害が起こる前の「備え」のモデルを作ろうではありませんか。そして、「地 震」という自然現象が発生しても、「地震災害」という社会現象を発生させない方法を作り、広く他地域に広げていこうではありませんか。あいち防災リーダー の会の知恵として、少しずつ作っていきましょう。