繰り返しやってくる巨大地震

 地震は繰り返し同じ場所で起こる。特にプレート境界では、数十年から200年程度の時間間隔で規則的に地震を発生させる。図1は、過去100年間に発生した日本周辺での地震の震源域の分布を示している。日本列島の太平洋側では、それぞれの地震が縄張りを持って、隙間無く発生している。

 伊豆半島の西から四国沖にかけては、図2に示すように、白鳳の地震以降、多くの地震記録が古文書などに残されている。最近の3回の地震の震源域を図3に 示すが、毎回地震の発生の仕方が異なっている様子が分る。伊豆半島を挟んで東西の海底には、相模トラフ、駿河トラフと呼ぶ窪みが存在する。駿河トラフのさ らに西側には、浜名湖沖から日向灘沖に南海トラフが広がる。伊豆半島は、南の海の孤島がフィリピン海プレートに乗って北上し、本州にぶつかってできた。島 の衝突によって押されてできたのが箱根の山々である。

 伊豆半島の東側の相模トラフでは、北アメリカプレートとフィリピン海プレートが接している。ここでは、1703年と1923年に関東地震が発生した。一 方、西側の駿河トラフ・南海トラフではユーラシアプレートとフィリピン海プレートが接している。ここでは、1707年宝永地震(10月28日、東海・東南 海・南海が同時発生)、1854年安政地震(12月23日と24日、32時間を挟んで東海地震=東海+東南海と南海地震が続発)、1944年(12月7 日、東南海地震)・46年(12月21日、南海地震)の昭和の地震が発生している。

 宝永地震は元禄関東地震の4年後に発生し伊豆半島の両側で巨大地震が続発した。宝永地震の49日後には、両地震の震源域の間にある富士が噴火し、元禄の 太平期が終わった。安政地震の時には、7年前に善光寺地震、半年前に伊賀上野地震、翌年に安政江戸地震、4年後に飛越地震が発生した。一連の地震災害によ る社会の混乱は、江戸幕府終焉の一因になったと想像される。昭和の東南海地震の前後には43年鳥取地震、45年三河地震が発生した。東南海地震が起こった のは、太平洋戦争開戦記念日の前日である。翌週12月13日には、はじめての名古屋大空襲が行われ、さらに一ヶ月後の45年1月13日に三河地震が発生し た。僅か1ヶ月の間に、東南海地震、大空襲、三河地震に見舞われ、我が国最大の軍需拠点は壊滅的な打撃を受け、終戦へと向かった。さらに翌年南海地震が発 生、2年をおいて48年福井地震が発生し、戦後の混乱をさらに深めた。このように、南海トラフの巨大地震は西日本全体を被災させ、かつその前後には内陸で の直下地震も続発する。このため我が国の歴史形成とも無縁ではない。

 宝永、安政、昭和の地震の規模は、大・中・小となっている。東海地震説が唱えられたのは、安政地 震に比べ昭和の地震の規模が小さく、駿河トラフに震源域が及ばなかったため、150年間分のひずみが蓄積されているというのが主たる理由である。しかし、 各地震の発生間隔を見てみると、147年、90 年となっており、規模の小さな地震の後は、時間間隔が短くなる。次の南海トラフでの巨大地震は比較的早期に発生するかもしれない。駿河トラフを震源とする 東海地震が単独で発生したことは歴史上知られていないこと、駿河湾域でのプレートの沈み込み量が小さいことから、東海地震が単独で発生する場合だけではな く、東海・東南海・南海地震が連動した巨大地震への備えをするべき、との声もある。東南海地震の発生確率は、今後30 年で50%、50年で90%、南海地震はそれぞれ40%、80%とされている。ちなみに、2003年に発生した十勝沖地震は30年発生確率60%、 1995 年兵庫県南部地震の場合は最大でも8%の発生確率だったと言われる。今、最も地震発生確率が高いのは宮城県沖地震の99%である。宮城県沖では、30年程 度の時間間隔で地震が発生しており、前回の1978年宮城県沖地震から26年が経とうとしている。これらの地震の切迫性が理解できる。

 南海トラフでの地震の発生の仕方は毎回異なる。1605年慶長地震では、津波被害のみが記され、揺れの被害は記録されていない。図4に 示すように、昭和の地震は規模が小さく、安政の地震と比べ、震度・津波高さともに相当に小さい。昭和の地震で被害が小さかった場所も油断は禁物である。大 都市には、当時には存在していなかった埋立地が広がり、石油タンクや超高層建物などの長大構造物が多数存在する。オフィスや住宅も洪積台地から軟弱地盤へ と拡大した。

図1&4 http://www.hp1039.jishin.go.jp/eqchr/eqchrfrm.htm
図2 寒川・地震考古学・中公新書
図3 茂木・日本の地震予知・サイエンス社